この週末、学生時代の友人たちと、食事した時のこと。
隣に座った先輩に、「ジャスミンのiPhone、ずいぶん小さいね。モデルは何?」と尋ねられました。
「12 mini。」と答えたところ、「miniか。女の子は手が小さいから、それくらいがちょうどいいんだね。」、と先輩。
・・・あ、「女の子」って言われた。
●ちなみにこのiPhone、男性の友人のお古(ふる)です●
私は50代で、どこからどう見ても、立派なおばさん。
年下の人はおろか、同世代の人であっても、私のことを知らない人であれば
「このおばさんが『女の子』wwww」と、つっこみたくなることでしょう。
だけど、昔からの仲間だけは違う。
私が本物の女の子だった時を知っていて、一緒に歳をとってきたから。
彼らにとっては、私はいまでも「女の子」。
反対に、私にとって彼らは、いつまで経っても、やんちゃな青年。
でね、40代の頃から感じていたんだけど、
自分が「女の子」(あるいは「男の子」)でいられる場所って、大切なんじゃないだろうか?
別に、ずっと恋愛対象でいたいとか、ちやほやされたいとかいうわけじゃなくて、
なんというか、自分が女の子でいられる仲間と居ると、
何の責任も無かった頃の自分に、戻ったような気がするのです。
50代にもなれば、みんな、何らかの責任を背負っている。
まず、多くの友人は親、夫、妻として家族を支え、今では老親も守っている。
それに加えて、仕事上の社会的な顔や、地域での役割も。
独身の私ですら、去年までは会社の部長、最近は(底辺だけど)個人事業主、
そういう、役割としての仮面や衣装(時には武装!)を身につけてるもの。
女の子でいられる場所では、そういう仮面や鎧は必要ない。
そういうのは、全部脱いで、なんならすっぴんでも平気。
自分だけじゃない、親も、みんなが若くて元気だったあの頃。
何者でもなかった代わりに、何の責任も無かった、あの頃。
いや、今も何者でもないんだけど、「あの頃の私」として接してくれる仲間と居ると、
とてもリラックスできて、たくさん笑えるのです。
これは、なにも学生時代の友達に限ったことではなくて、
昔の会社の先輩たちと一緒にいる時も、似たような気持ちになります。
この記事に書いた、数社前の先輩たちは、今でも私を
「元気だけが取り柄の、若手社員」として扱ってくれるので、それが心地よいです。
▷ 4人で集まったら、1人しか働いてなかったーFIREブームとの共通点は?
それから、ある友人は、若い頃からずっと推してるバンドのコンサートに行くと、
「女子」に戻れて、元気が出るって言ってたなぁ。
要は、家庭や職場以外に「素の自分」に戻れる場所があるといいよ、ということかな?
男性が、「スナックでママに説教されたい!」っていうのも、
男の子に戻って、元気をチャージしてるのかもしれませんね。
・・・そんなわけで。
週末は、「女の子・男の子」でいられる仲間と、過ごして、リフレッシュできたので、
今週も仕事がんばります。
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