ウクライナのニュースを目にする度に、なぜか昔のことを思い出します。
私が子供だった1970-80年は、冷戦のまっただなか。
ニュースはもちろん、テレビや映画の題材も冷戦を扱ったものが多かった。
東から西へドイツの国境を越えようととして命を落とした人の話とか。
そうだ、「ザ・デイ・アフター」という、東西核戦争の恐怖を描いた映画も観たわ。
核戦争が本当に起きたらどうしよう、と思うと恐ろしかったです。
その頃、私の父は頻繁に海外出張しておりました。
ソ連上空を通ると撃ち落とされるかもということで、ヨーロッパ便は遠回りでもアンカレッジ経由で。
しかし時々はソ連(モスクワ?)経由便を使っていたようで、垣間見たソ連の様子を聞かせてくれました。
燃料補給に止まるだけでも、乗客は全員降ろされ、パスポートを兵士に回収される。
兵士はパスポートを数えて一人一人照合するけど、それがびっくりするくらい効率が悪い、とか、
ソ連兵は質の悪そうなゴワゴワのコートを着て動きにくそうだ、
そんな話を聞く度に、冷戦はテレビの中だけでない、現実なんだ、と感じたものです。
冷戦とは少し違いますが、ソウルの話もよく覚えています。
当時の韓国は軍事政権下。
夜間は外出禁止だし、街で国歌が流れてきたら、立ち止まって終わるまで待たなければいけない、と話していました。
忘れられないのは、父が初めてソウル出張した時のエピソードです。
政情不安な国へ若者を行かせる、ということで、上司や同僚が羽田空港まで見送りに来てくれたそう。
さらには水盃で乾杯し、「○○△△男くん(ジャスミン父の名)、ばんざーい!」と万歳三唱で送り出したそうです。
しゅ、出征?
ただのソウル出張だよね?
赤ん坊だった私もそこにいたそうですから、1970年代初めのことです。
当時は日本の人々の中にも、まだ戦争時の習慣が残っていたんですね。
水盃は、「二度と会えないかも」という時に交わすもの。
コロナ前なら一泊二日でコスメを買いに行ってたソウルも、ほんの50年前には生きて帰れるかわからない渡航先だったんですねぇ・・。
50年は「ほんの」じゃないか。
戦争のニュースを見ても、父の思い出や退職の時期を心配してしまうなど、私は相変わらず自分のことばかり・・。
恥ずかしく思っていた時に、ハウリンさんの記事を読みました。
そうだ、自己中な私にもできることがある。
そう気づいて、些少ながらユニセフのウクライナ緊急募金に申し込みしました。
記事では、楽天ポイントで寄付できる募金も紹介されています。
ウクライナ情勢やコロナなど、世界には本当に多くの問題がありますね。
でもまたすぐに、旅行者が自由に安全に渡航できる日が戻りますように。
そしてウクライナや無理矢理戦争させられてる兵士たちにも、一日も早く平和が戻りますように。
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